Mons Vaticanus


『これでひとつ過去を清算できた』
 遠くで、ザンザスがそう吐き捨てるように言うのが聞こえたような気がした。
 ―――あぁ、これでやっとお前を解放してやれる。
 鮫に襲いかかられ海水に沈みゆく重い体で、スクアーロはそう思った。校舎の壁と海水に隔たれ、聞こえるはずのない声が聞こえるのはきっと気のせいなのだろう。
 どんなに重荷になっているとわかっても、自分からは手を離せなかった。
 これで、やっと。



 スクアーロはザンザスに名前を呼ばれたことなどない。
 いつも『カス』と呼ばれているが侮辱の言葉であるだろうそれすら気にならない。股を開けと言われれば股を開き、気分を出すため女のように善がって見せたりもした。
 ザンザスの望みはなんだって叶えたが、ふたつだけ叶えられなかったことがある。
 それは、ボンゴレファミリーの十代目に就任させてやることと、自分が死んでやることだ。
 伸ばし続けた銀糸の髪が八年の長い眠りから目覚めたザンザスの負担になっていることには再会から三日もしないで気付いたけれど、今さら「切る」と言い出すことはできなかった。
 八年は長く、また、そう言い出すことはザンザスを侮辱することになりかねなかったからだ。八年前、ゆりかごと呼ばれるクーデターのまだ前、笑われながらもスクアーロが己の髪に誓った『お前が十代目になるまで髪を切らない』という言葉。それがお互いの足枷になるなどとどうして思えただろう。
 スクアーロの誓いにも、ただ「はっ」といつものように嘲笑したザンザスだったけれど、その実、声音にはわずかな喜色が滲んでいた。スクアーロでなくば聞き落としただろうほんのわずかな色だったが、それで充分だった。
 それなのにどうしてスクアーロが「髪を切りたい」と言い出せただろう。
 何も持っていないザンザスに世界のすべてを捧げたかった。どこかで狂ってしまった歯車が、軋み出すのがわかっていても。


 ザンザスが何より欲したものは巨大な権力と地位を持つ『ボンゴレ十代目』という立場ではない。誰かからの無償の愛情、気持ち悪いとは言いながらも裏切らないそれを彼は貪欲に欲していた。
 何もかもに裏切られることを前提として、何も信じていない男だった。
 だからこそ忠誠を。
 彼の欲したものとは違うけれど、誓った。
 ザンザスに与えられるものは、暴力でも言葉でもすべて受け止めて、避けないことがスクアーロの証だった。
 超直感という不要のものを持つ彼に、何もかも見透かされていると良いのにと思うほどには。


 だからスクアーロは山本に負けた時、これ幸いと鮫とともに海に沈んだのだ。
 今ならあいつのために死んでやれると思った。
 これは自殺ではない。不可抗力だ。
 それでも戦いに馴染んだ体は持ち主を裏切って襲い来る鮫を切り刻み、スクアーロを一瞬延命させた。
 鮫の血が赤黒く視界を染める。抵抗した鮫の大きな歯に噛まれたスクアーロ自身の血もあり、辺りの海水の色も変わった。
 汚く膨れあがった水死体の自分だけは見られたくないなと思ったが、もう遅いだろう。おとなしく鮫に食われてりゃ、その腹を捌かれない限り死体になった姿を見られることもなかったのにとぼんやり思う。
「ボース…」
 思わず呟いた言葉は、ガボ、という気泡となって海水に消えた。
 これでやっとお前を楽にしてやれる。お前の欲しかったものはすべて手に入る。
 ボンゴレ十代目になるお前を見届けられなかったのだけが残念だけれど、いつまでも―――。



 ゆりかご騒動のあと、標的になったボンゴレの九代目はそれでもヴァリアーを罰しなかった。そう、ザンザスにより近い場所にいて計画のすべてを知っていたであろう、スクアーロすらも罰せられなかった。
 スクアーロは己の処罰を覚悟していた。ザンザスと共に処刑されるのだと思ったがそうされなかった。処罰はザンザスの文字通り『凍結』をもって行われた。
 それを知るものすらろくにいない処罰は処罰の意味を成さない。だからこそ、ゆりかご騒動のあと、ヴァリアーには以前より過酷な任務が与えられ続けた。いつの間にかパーティーなどの表舞台に顔を表さなくなったトップとヴァリアーへの処遇を見て、薄々、ゆりかご騒動の首謀者が誰であったのか気付く者もいたほどだ。
 イタリア随一の、ひいては世界有数のマフィアであるボンゴレファミリーの本部を強襲できる戦力を持つファミリーなど、多く存在しない。そしてボンゴレ幹部が報復もせずにそれを闇の中に隠すということは、相手にもそれなりの立場や地位があるということだ。けれどそこまでしてボンゴレが隠さなければいけない敵対ファミリーなど、居はしない。
 だからこそ、ヴァリアーが疑われた。
 ボンゴレの中にあってボンゴレではないもの。ヴァリアーは『独立暗殺部隊』として存在する。ヴァリアーがしたことはあくまでもヴァリアーがしたことで、大ボンゴレ本部とは関係がない。後ろ盾がないということは、彼らはいつでも石ころのように死ねるということのはずだった。






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2008/04/28 




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